図6Ar-1は一番簡単なHClの伸縮振動モデルを示しているが、この振動周波数に相当する波数(波長)がHClの吸収スペクトルになる。この振動は、バイオリンやピアノと同じように図6Ar-2の弦の振動で考えることが出来る。これだけでは何が問題なのか、良く理解できないが、HClのスペクトルから基本音を実測すると波数は2886cm-1となる。図6Ar-2からその倍音は2倍になるから5772cm-1となるはずだが、実測波数は5668cm-1となり約100cm-1ずれている。基本音は赤外の領域(4000~400 cm-1)にあり、倍音は近赤外の領域(10000~4000cm-1)にある。約100cm-1のずれが非調和性に起因するということは、すでに深く研究されていて下表のようになる。
この表を見てわかることは、非調和振動と調和振動では、基本音ですでに変わっているという点だ。基本音で何故変わるのだろう?と疑問がわく。非調和性は何かということになるが、簡単にいえば図6Ar-1のバネが変形して、例えば図6Ar-3のようになって変位と共にバネ定数が変化すると考えればよい。どんな形のバネ定数を考えればよいかということになるが、分子の非調和振動のポテンシャルエネルギーとして良く知られているものにモースの関数がある(図 6Ar-4参照)。原子間距離によってポテンシャルエネルギーは大きく変化し、平衡原子間隔を中心にしてポテンシャルの形が変わる(つまりバネ定数が変わる)と考えて良いだろう。バネ定数が変化した場合の振動(非調和振動)の解析は、フックの法則に従わないので少し複雑になる。HClのような2原子分子はより複雑なので(計算化学ではごく簡単だと思うが)、ここでは単に重い原子のCl側が固定された単振動子で考えてみる。(図 6Ar-5)
バネの伸びと力の関係がフックの法則に従わない場合の式としてダフィング方程式(Duffing equation)がある。 (6Ar-1式)
ここでα>0で線形のバネ定数で、βは非線形度を表すパラメータでβ>0のものを漸硬バネ、β<0のものを漸軟バネとよぶ。β=0が線形のバネだ。βに相当する分子振動の非調和定数はすでに求められていて、HClでは0.0174だ。ダフィング方程式から、非線形状態ではどのような振動をするのか推定してみた。原子間距離が離れるとバネ定数は小さくなると考えβ<0について考える。ダフィング方程式を解析的に解くのはなかなか難しいので、微分方程式の数値解析法の一つであるルンゲクッタ法を用いてシミュレーションを行った。又その振動スペクトルピークを比較するために、ファーストフーリエ変換(FFT)を用いて非調和振動と調和振動のスペクトルを比較し、図6Ar-6と図6Ar-7に結果を示した。
非調和振動と調和振動では共振周波数(基本音の吸収ピーク)が異なり、波形も非調和振動では歪んでいることがわかる。分子の非調和振動と調和振動では基本音の波数が異なり、見ることは出来ないが振動波形も歪んでいると推定できる(量子力学的にはそんなに簡単ではないが)。
表6Ar-1にある基本音の実測値と調和振動の差はこれで定性的に理解できる。しかし、実測の倍音が、実測の基本音の2倍から100cm-1もずれる理由はわからない。この説明に量子力学が必要になるのだが、基本音と倍音では、非調和定数が吸収波数に与える影響が異なる。これが100cm-1ずれる主原因になる。
基本音の吸収波数をνe、非調和定数χeとすると、HClの場合の測定される基本音νoと倍音ν_2oはエネルギー準位と選択律から以下のようになる。
νo=νe(1-2χe) …… (6Ar-2)
ν_2o=2×νe(1-3χe)…… (6Ar-3)
(6Ar-2)と(6Ar-3)より、非調和定数による基本音と倍音の差は2(χe×νe)となる。χe=0.0174、νe=2990cm-1から104cm-1の差となり実測値とほぼ一致する。非調和振動は基本音の波数と振動波形を変え、倍音では量子力学の選択律から倍以上の影響を吸収波数に与えることが分かる。
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